知の食卓130号 2006.3.13

科学読み物シリーズ5Science story 5「産褥熱」Puerperal fever



「産褥熱をなくす」 イグナーツ・ゼンメルヴァイス(Ignaz Semmelweis)


_1800年代まで、子供を産むことは女性にとって命がけであった。子供を産んでから産褥熱(さんじょくねつ)という恐ろしい病気にかかる危険性があったからである。産褥熱は、出産後、38℃以上の高熱が続く病気であり、重い場合は、死に至る病気である。
_オーストリアのウイーン総合病院に勤務していたイグナーツ・ゼンメルヴァイス(Ignaz Semmelweis)は、目の前で死んでいく母親達を見ていて、無力感を感じていた。ゼンメルヴァイスは、1844年にウイーン大学の産科学の助手になると同時に、産褥熱の解決に取り組むことを決意した。
_いくつかの病院では、産褥熱にかかる母親は、全体の25%に及んでいた。多くの医師達は、産褥熱は、天然痘のような特殊な原因でおこると考えていた。特殊な原因とは、毒性の気体であると考えられていた。
_ゼンメルヴァイスは、調査を始めた。
_ウイーン総合病院には、産科が2つあった。それぞれの産褥熱による死亡率は以下の通りであった。
_第1産科 約3500人のうち600-800人が産褥熱で死亡。
_第2産科 約3500人のうち60人が産褥熱で死亡。
_また、一年間の死亡率の変化と季節との関係は、見られなかった。ウイーン総合病院で産褥熱が流行しても、自宅出産の産褥熱との発生が増えることはなかった。
_第1産科と第2産科の違いを調べてみると、第1産科は、産科医と学生が患者を世話しており、第2産科は、助産婦が世話していた。
_さらに詳しく、死因を調べてみると、出産時にできた子宮付近の傷が大きいほど、産褥熱にかかる割合が高くなっていた。
_これらの調査結果をもとにゼンメルヴァイスは、産褥熱の原因を考えた。

後半


_結果から考えられることは、毒性の気体が原因である可能性は低いということだった。気体が原因であれば、第1産科から第2産科へと気体が移動して感染することが考えられたからである。第1産科と第2産科の違いは、患者を世話する人である。第1産科は、医者と医学生であり、第2産科は、助産婦である。第2産科と自宅出産の共通性は、助産婦である。
_こう考えているとき、悲しい事件が起きた。ゼンメルヴァイスが尊敬する教授が解剖中に誤って自分の手を傷つけてしまい、化膿して死んでしまったのである。彼は、泣きながらも、教授の死因を特定するために、教授の解剖を行った。
_そのときに、思いがけないことに気がついた。教授の解剖所見と産褥熱で死亡した母親たちの解剖所見がよく似ていることに気がついたのである。
_ウイーン大学では、毎日、教授と学生は、毎日死体を解剖していた。解剖の前後では、十分に手を洗っていなかった。解剖を手早く行うことが優秀な医師だとされていたのである。ゼンメルヴァイスは、この点にも注目した。
_そして、とうとうゼンメルヴァイスは、産褥熱の原因は、医師によって運ばれる何かではないかと考えるようになった。産褥熱にかかった患者を解剖した教授と学生が、そのまま洗わない手で診察、世話をすることで産褥熱が移っていくのではないかというのがゼンメルヴァイスの結論だった。
_次に、ゼンメルヴァイスは、どう予防するかを考えた。この時代には、まだ抗生物質が発見されておらず、一度産褥熱にかかれば、有効な治療法がなかったのである。ゼンメルヴァイスは、塩素溶液を使うことを考えた。塩素溶液は、その頃、漂白剤として使われていたが、同時に殺菌作用があることが知られていたからである。
_ゼンメルヴァイスは、患者を診察、世話をするときには、塩素溶液で肌が滑らかになるまで手を洗うことを徹底させた。
_塩素溶液を使う方法を1年間続けた結果、第1産科で死亡した妊婦は、40人にまで減ったのである。第2産科で死亡した妊婦も同じ数ぐらいまで減ったのである。ゼンメルヴァイスは、自分の考えが正しいことを確信した。
_しかし、ゼンメルヴァイスの方法は、彼が生きている間には、十分に広まらなかった。その原因は、ゼンメルヴァイスが若かったということとこの結果を出版しなかったことにある。何よりも大きな原因は、産褥熱の原因が医師にあるということを医師自身が認めたくなかったことにある。ゼンメルヴァイスが塩素溶液による手の洗浄を広めようとすると、多くの反対にあった。その当時、学会の権威者と呼ばれる人達も反対する集団の中にいた。そのため、次第にゼンメルヴァイスは、精神が不安定になり、この方法を主張することを控えるようになった。
_後の人々は、このことをゼンメルヴァイスの悲劇と名づけている。

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